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アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵) : ウィキペディア日本語版
アーサー・ウェルズリー (初代ウェリントン公爵)

初代ウェリントン公爵アーサー・ウェルズリー(, 、1769年4月29日 - 1852年9月14日)は、イギリス軍人政治家貴族
ナポレオン戦争で軍功を重ね、最終的に1815年ワーテルローの戦いでは同い年のナポレオンと会戦し、彼を打ち破った軍人として知られる。状況に応じた戦いを周到に行う名人だった〔「Engineers of Victory」Paul Kennedy p187〕。軍人としての最終階級は。
トーリー党保守党)の政治家としても活躍し、ジョージ4世ウィリアム4世の治世中、二度にわたって首相を務めた(在職1828年-1830年1834年)。ヴィクトリア朝前期にも政界の長老として活躍した。
「鉄の公爵」(Iron Duke)の異名をとる〔ストローソン(1998) p.26〕〔トレヴェリアン(1975) p.74〕。
== 概要 ==
アイルランド貴族初代モーニントン伯爵ギャレット・ウェズリーの三男としてアイルランド王国首都ダブリンに生まれる。イートン校に通った後、フランスの士官学校を卒業する。1787年イギリス陸軍に入隊。1794年にはフランス革命戦争ベルギーオランダ戦線でイギリス軍の退却作戦を支援して活躍した。これが初めての実戦経験となった。
1796年イギリス東インド会社が支配するインドへ派遣され、同じ頃にインド総督となった兄ウェルズリー侯爵のもと、インド征服戦争の指揮を執った。1799年マイソール王国侵攻(第四次マイソール戦争)、1803年の対マラータ同盟戦争(第二次マラータ戦争)などで戦功をあげた。
1805年にイギリスに帰国し、1806年4月にはと結婚、またトーリー党候補として庶民院議員選挙に出馬して当選し、政界進出を果たした。1807年にはポートランド公爵内閣にとして入閣している。
イベリア半島において半島戦争が勃発すると、ナポレオンに抵抗するスペインポルトガルの民衆を支援すべく、1808年7月にイギリス軍を率いてポルトガルに上陸し、8月にもでフランスのポルトガル遠征軍を撃破した。こののち一旦帰国するが、入れ替わりにナポレオン本隊が半島に侵攻してスペイン全土を制圧、再びポルトガルに侵攻してきた。これを受けて1809年4月にポルトガル駐留英軍の総司令官として再度半島に派遣され、5月のでフランス軍をスペインに押し戻す。さらに7月にはで勝利し、この戦功で「ウェリントン・オブ・タラベラ子爵」の爵位を与えられ、貴族に列した。1810年5月からのフランス軍のポルトガル再侵入もを作らせておいたのが功を奏し、1811年3月までにスペインに追い返すことができた。
同年5月からスペイン・ポルトガル国境地帯の要塞の攻略を目指し、1812年3月から4月にかけてのの勝利でそれを達成した。その戦功で「ウェリントン伯爵」に叙される。同年6月よりスペイン進行を開始し、7月にでフランス軍を撃破したことで、8月にはマドリード占領に成功した。この功績でウェリントン侯爵に叙された。しかしこの後ブルゴス攻略に失敗し、さらにフランス軍がマドリードに接近してきたため、全軍をポルトガルまで後退させた。ポルトガルで越冬した後、1813年5月からスペイン再進行を開始し、6月のビトリアの戦いでスペイン王ジョゼフ・ボナパルト率いるフランス軍を撃破した。この戦いで半島戦争のイギリス軍の優位は決定的となった。この戦功により元帥に昇進した。
ロシア遠征失敗などでナポレオンが四面楚歌に陥ったのを受けて、1813年10月よりスペイン・フランス国境を越えてフランス領侵攻を開始した。1814年4月にトゥールーズを攻略したところでナポレオンの退位の報に接した。これまでの戦功を労われて「ウェリントン公爵」に叙された。同年6月にイギリスに凱旋帰国。その際国民の熱狂的な歓迎を受け、その名声を不動のものにした。同年7月にはフランス駐在イギリス公使に就任、さらに翌1815年にはウィーン会議カスルリー子爵外相が途中帰国した後の英国の全権代理を務めた。
ついでナポレオンがエルバ島を脱出してパリに復帰すると、これを迎え撃つべくブリュッセルに急行する。1815年6月18日のワーテルローの戦いではブリュッヘル元帥率いるプロイセン軍と協力してナポレオン撃破に決定的な役割を果たし、その野望を最終的に打ち砕くに至った。ナポレオン戦争後はフランス占領軍総司令官を務め、敗戦国に寛大な占領統治を行った。占領軍の撤収が完了した後の1818年12月にイギリスに帰国した。
帰国後は主に政界で活躍する。1819年リヴァプール伯爵内閣のに就任し、1827年2月まで在職する。1827年1月には軍職のにも就任している。しかし保守的なウェリントン公爵は、閣内でジョージ・カニング自由主義派閣僚と対立を深めており、1827年2月にリヴァプール伯爵が首相を辞職し、カニングがその後任となった際にカトリック解放の方針に反発して辞職することとなった。
カニングの急死、続くゴドリッチ子爵内閣と国王ジョージ4世の対立により、1828年1月にはウェリントン公爵に大命降下があった。カトリック問題を棚上げすることでカニング派の入閣を取り付けての組閣に成功した。しかし自由主義的なカニング派と意見が合わず、1828年5月から6月にかけてカニング派閣僚に集団辞職された。もともとカトリック解放に慎重だったウェリントン公爵だが、頑迷ではなく、アイルランド・カトリックが議員に当選するという情勢の変化に応じて、1829年4月にはカトリック解放法案を可決させた。しかしこれにより党内の亀裂が深まり内閣の基盤は弱くなった。選挙法改正の機運が高まる中、野党の団結は進み、1830年11月にウェリントン公爵内閣は議会で敗北を喫し、総辞職を余儀なくされた。これによって半世紀ぶりのホイッグ党への政権交代が起こった。
ホイッグ政権の間も野党トーリー党(1834年頃から保守党と改名)を党首として指導したが、サー・ロバート・ピール准男爵に党の実務を委ねることが多くなっていった。ホイッグ党政権が推し進める第一次選挙法改正を阻止しようとしたが、失敗している。
1834年11月にホイッグ政権の首相メルバーン子爵が国王ウィリアム4世と対立して解任された際に国王より大命を降下され、イタリア訪問中のピールが帰国するまでの暫定政権としてを組閣した。12月にピールが帰国するとただちに首相職を譲り、第1次ピール内閣の外務大臣に転じた。結局第1次ピール内閣は早期に倒閣され、メルバーン子爵政権に戻るもウェリントン公爵は一貫してピールを支え続けた。
1837年に即位したヴィクトリア女王からも厚い信任を寄せられていたが、1839年寝室女官事件時の女王の説得には失敗した。1841年成立の第2次ピール内閣には無任所大臣として入閣。1842年には軍職の陸軍総司令官職に再任され、1852年の死まで務めた。しかしシビリアン・コントロールを嫌うあまり、あらゆる軍制改革に反対して旧式の軍隊編成に固執した。これがクリミア戦争における英国将兵の死傷者数を増やしたことにつながったといわれる。
1852年9月にケントので死去した。


抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
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